2009/01/08
01:27:58
改定版
第3話「絡まりゆく糸」
あれから既にひと月が過ぎようとしていた。
もう間もなくやってくる梅雨。
今日は初夏を思わせる陽気。
朝から気温の上昇を思わせる眩しい太陽。
私は強い日差しを避けるように、日陰を探しながら出社した。
「おはようございます」
ドアを開けると同時に返答があることを予期していたのに、声がかからなかった。
あれ?
まだ、来ていないのかな?
そう思っていると奥から物音が。
社長室のドアが開いて燐が顔を出す。
「あ……」
思わず声が漏れる。
「あ……おはよう」
濡れた髪をバスタオルでガシガシと拭きながら、声をかけてきた。
素肌に羽織っただけのYシャツ。
胸が開(はだ)けた状態。
私の視線に気付き
「ああ……禊…シャワーを浴びてたんだ」
「えっ、ここシャワーもあるんですか!?」
「うん。……色々便利でね」
にやりと笑う燐を無視する。
事あるごとにからかってくるから、一々気にしていたら先に進まない。
このひと月でそう学んだ。
「で、今日はどういう予定で動かれるんですか?」
私の様子なんてお構い無しで、自分のペースを押し付けてくる。
「……ね、良かったらシャワー使ってもいいよ。今日は暑いからね」
私の質問には答えず、燐が馴れ馴れしく肩を抱いてきた。
その顔は16、7の少年の物ではなく、明らかに人を誘惑するような表情。
恐ろしいギャップ。
「あの、これってセクハラだと思います」
きっぱり言い切る。
第3話「絡まりゆく糸」
あれから既にひと月が過ぎようとしていた。
もう間もなくやってくる梅雨。
今日は初夏を思わせる陽気。
朝から気温の上昇を思わせる眩しい太陽。
私は強い日差しを避けるように、日陰を探しながら出社した。
「おはようございます」
ドアを開けると同時に返答があることを予期していたのに、声がかからなかった。
あれ?
まだ、来ていないのかな?
そう思っていると奥から物音が。
社長室のドアが開いて燐が顔を出す。
「あ……」
思わず声が漏れる。
「あ……おはよう」
濡れた髪をバスタオルでガシガシと拭きながら、声をかけてきた。
素肌に羽織っただけのYシャツ。
胸が開(はだ)けた状態。
私の視線に気付き
「ああ……禊…シャワーを浴びてたんだ」
「えっ、ここシャワーもあるんですか!?」
「うん。……色々便利でね」
にやりと笑う燐を無視する。
事あるごとにからかってくるから、一々気にしていたら先に進まない。
このひと月でそう学んだ。
「で、今日はどういう予定で動かれるんですか?」
私の様子なんてお構い無しで、自分のペースを押し付けてくる。
「……ね、良かったらシャワー使ってもいいよ。今日は暑いからね」
私の質問には答えず、燐が馴れ馴れしく肩を抱いてきた。
その顔は16、7の少年の物ではなく、明らかに人を誘惑するような表情。
恐ろしいギャップ。
「あの、これってセクハラだと思います」
きっぱり言い切る。
「ちぇっ、詰まんないなぁ。最近ノリが悪い……」
「なんのノリですか!」
平静を装って遇(あしら)ったけど、内心ドキドキしていた。
肩を抱かれた時に、ふんわりとボディーソープの香りがしたから。
シトラス系の爽やかな香りの他に、ほんのりとホワイトムスクのような甘い香りを感じた。
ムスクの甘ったるい香りは苦手だったけど、何だか燐の香りは心地良かった。
髪がすっかり乾くと、ちょっと出てくると言い残して燐は外出した。
当然、外出前に指示を仰いだけど
『今日は特にないからゆっくりしてれば』だって。
何だか給料泥棒みたいで嫌だな。
つくづく貧乏性なのかもしれないけど。
ここ、『RIN COPORATION』は大手建設会社の子会社。
親会社の現社長(燐の父親)が社長を兼任し、
燐がコーディネーターという肩書きで実質ここを取り仕切っている。
社長が見えることは皆無だそうで、現在その社長室は燐が占領している。
しかも彼の給料形態は歩合制だと言う。
儲かれば儲かる程、燐の懐に入る仕組みらしい。
だから役員ではなく、平社員扱いなんだ。
ちゃっかりしてるな……。
この会社に来てまず驚いたのは、一般的な事務作業が殆ど無いこと。
そうした作業は週に1度、親会社の社員が持ち帰り処理をする。
その分の人件費は支払っているらしいけど。
『RIN COPORATION』の実質の業務と言えば、
あの『方違い』みたいにちょっと普通ではお目にかからないことが殆ど。
でも、収益率がいいらしい。
資料を見せ貰っても数字の羅列で分からなかったけど、利益もかなり上がっているという。
正直、顧客リストを見てビックリした。
だって、こんな胡散臭い仕事を依頼してくるのは、親会社だけだと思っていたもの。
建設大手5社の他に錚々(そうそう)たる企業名が連なっていた。
中には顧問契約のようなものを結んでいるところもあるという。
皆口コミらしい。
取り敢えず何もしないのは嫌だったので、ファイリングされたものを見直し、
利用しやすいように整理整頓を始めた。
一時間程して燐が帰ってきた。
お帰りなさいと声をかけようとして止めた。
携帯で顧客と話しながらの帰社だったから。
「……ええ、分かります。お困りですよね」
燐が私の方を向いてニコッと笑う。
唇が『ただいま』と動く。
そんな彼の行動がちょっと嬉しい。
「その地域でしたら、こうした方面に精通した神社があります。
早急に対処してもらえるよう、こちらから連絡を入れておきますね。
……大丈夫ですよ。そんなこと普通にあることですから。ええ、ご心配なさらないで」
燐が社長室の椅子に掛けながら話し続ける。
私はすかさず作り置きした麦茶を、彼のデスクにそっと置いた。
再び燐の唇が動く。
『ありがとう。助かる』と。
暫くして会社の電話が鳴る。
滅多に鳴ることがないのでちょっと慌てた。
「はい、RIN COPORATIONです」
「あの、すみません……燐をお願いします。悠木燐にかわって下さい」
澄んだ声の持ち主が、慌てた様子でたたみかけてくる。
「……失礼ですが、お名前を頂戴できますか?」
「あ、ごめんなさい。燐の母です。いつも息子がお世話になっております」
一瞬、受話器を落としそうになった。
なぜか手に汗握り、鼓動が速くなる。
「し、失礼致しました。お母様ですか。すぐにお電話お繋ぎします」
保留にして社長室に駆け込む。
「1番にお電話が入っています。……お母様からです」
一瞬、燐の顔が曇る。
「……ありがとう」
受話器を握る燐の姿がどことなく硬い。
私はいつも開け放されている、社長室の扉を閉めて部屋を出た。
綺麗な声の女の人だった。
きっと容姿も美しい方なのだろう。
だって燐のお母さんだもの。
燐の様子が気になったけど、立ち聞きする訳にはいかず、自分のデスクに戻った。
自分の親と話すのに、あんな顔するんだ。
緊張と言う感じでは無かったけど、彼の表情は硬かった。
ここに来てから殆ど彼は笑顔だったのに、あんな表情もするんだ。
再び暇を持て余し、やることが見つからない。
じっとしていられず仕方なく、事務所内の掃除を始めた。
本棚や書類ケースの上を掃除しても、雑巾は殆ど汚れなかった。
掃除も諦めてPCの前に座り、PDFファイルに収められた、
過去の業務資料に目を通してみた。
お客様名の欄には著名な企業名がこれでもかという程並んでいて、
その他に依頼の内容、対処内容が書かれていた。
請負の金額を見て倒れそうになった。
経費込みとは言え、私の考えていた桁とは一桁違う。
……本当にこの会社に私は必要なのだろうか。
この金額を見る限り、私をおく理由に疑問を感じる。
私、何で出向になったんだろう。
初めに彼が言った言葉を思い出す。
確か、燐自身の外見の話をして、この容姿だと信用されないって言ってた。
確かに高校生をビジネスの場で信用するかと言ったら、正直難しいと思う。
でも業績も上がっているようだし、さっきの携帯でのやり取りといい、
信用を得ているように思う。
ま、ご新規さんの事を言っているのかもしれないけど、殆どが口コミだと言うし。
嘘をついているようには見えなかった。
でも、彼が私に固執する理由はないと思う。
たまたま愛想のいい私が気に入ったって。
……ホントかな?
やっぱり私が何かヘマをして飛ばされちゃったんじゃ……。
そう言えば、一度だけ思い当たる節が……。
アレかな?アレなのかな?
受付でした失態と言えばアレしか思い浮かばない。
私のいた受付は、通常お客様が見えるまでは、カウンターの椅子に座っていました。
そしてお客様が見えると椅子から立ち上がり『いらっしゃいませ』と言う言葉と同時に、
お辞儀でお客様をお迎えしました。
そして名刺を差し出されると、お客様から直接頂くのではなく、
(一般的には自らの手でお受けしますが)名刺盆(めいしぼん)と言うもので
名刺を受取りました。
何でそんなまどろっこしいことをするかは、正式なことは分かりません。
思うに大切なお名前が書かれている、謂わばその方の分身ともいえる名刺を、
大切に扱うという姿勢からかと。
私のした失敗というのは――――。
その名刺盆が勢いあまってスコーンと飛んでいき、
他のお客様へ当たってしまったことがありました。
しかも、最近。
ああ、そうだ、『アレ』しか考えられない。
間違いなく『アレ』だ。
私の手から擦り抜けた名刺盆は、他のお客様の後頭部を直撃。
「大丈夫ですよ。大したことはありません。お陰で目が覚めましたし……」
と笑って許して下さいましたが、ああ情けない。
受付人生5年の中でたった一度の失態は、本当にとんでもない大失態でした。
何で、今の今まで忘れていたんだろう。
気付いてしまった私はガクリと肩を落とした。
「あれっ、どうしたの?」
デスクに伏していると、背後から声が。
「あ、す、すみません」
いけない、今は仕事中。
ちゃんと仕事しなきゃ。
「なに?君でもそんなに落ち込むことがあるの?」
楽しそうに聞いてくる。
「私が凹まない人間とでも?」
「あれ?嫌に突っかかるね」
ますます楽しそうだ。
「お昼、ご馳走してくれたら機嫌を直します」
……京都で下着、買っちゃったからなぁ。
予定外の出費。
出してあげるよと言われたけど、上司に下着を買ってもらうなどあり得ない。
でも、ご飯なら……。
ダメかな?
「……いいよ、別に」
えっ!……今何て?
私は背後を振り返る。
「ふ……君の機嫌が直るならいいよって、そう言ったんだよ」
柔らかい微笑み。
あ……いつもそんな風に微笑めばいいと思ったけど、
彼の日頃の言動、行動を思い出すと、素直に喜んでいいものか……。
私が向けた探る様な視線に
「大丈夫。そんな事で見返りを求める程、ひっ迫していないから」
そう言って、私のおデコを小突いた。
でも、こんなやり取りが心地いい。
「ファイリング見直してくれたんだね。見易くなっていて助かった。
君は良く気が利く。お陰で色々と助かってるよ」
そんな言葉が心を軽くする。
少しは役に立ててるって気持ちになれる。
見た目は少年、でも中身はホントに大人なんだな。
やっぱり気遣いの出来る大人の男性なんだ。
タバコが嫌だと言ったら、私のいる前では吸わなくなったし、
結構大事にされてるのかな?
お昼は二人で外へ出た。
ここのところ、何だかくたびれてお弁当を作る元気が湧かない。
それは多分、慣れない環境や出来事に、精神が振り回されているから。
そんなこと言っていられる身分ではないのに。
だからお昼が一回浮くだけでも凄く助かる。
来月はしっかり出費を抑えねば。
「ご馳走さまでした〜」
正直『領収書下さい』なんて言ってたら、思いっきり引いたけど、
彼の自腹でちゃんとご馳走してくれたことが嬉しい。
いるんだよね。
女の子にいいところ見せようとして、その挙句、
おい、それは経費じゃないだろう〜
領収書もらうな〜って思うことが。
私は人に頼ることが嫌い。
だから当たり前のように驕ってもらう同性を見ると、何だか無性にイライラする。
過去に驕ってもらったことはあったけど、殆ど断るのが常だった。
それは何か見返りを求められそうで落ち着かないから。
でも燐には驕ってもらっちゃった。
嫌な気もしない。
却って嬉しい。
「機嫌直ったみたいだね」
「あ……すみませんでした。ダダこねて」
「そんなことは……。君はもっと甘え上手な子かと思ってた」
「それって受付にいたから?」
「それもあるけど……。でも安心した。意外と……いや、結構ガードが固いし」
「それは最終的に褒めて下さっていると解釈していいんですか?」
燐は答えず穏やかな微笑みで返してきた。
ドキッとする。
何だか自然に心の中に浸透してくる微笑み。
鼓動が上がった。
頬が染まりそう。
「あっ!そう言えば、お茶っ葉切れそうなんで、あそこで買っていきます。
先に事務所へ戻って下さい!」
私はそう言い残して、目の前の大手スーパーの入口へ駆け込んだ。
耳まで熱い。
彼は気付いただろうか?
まだ、鼓動が速い。
私は彼に惹かれているのかも知れない。
毎日振り回されちゃって大変だけど、私は彼に恋しちゃったのかも。
スーパーの店内は結構エアコンが利いていた。
普段弱冷房を好むけど、その時の空調は、今の私に丁度いいものだった。
手早く買い物を済ませ、私は軽い足取りで事務所へ向かった。
ちょっと前に流行った恋の歌を、何となく口ずさみながら――――。
次回、第4話「知るということ」
「なんのノリですか!」
平静を装って遇(あしら)ったけど、内心ドキドキしていた。
肩を抱かれた時に、ふんわりとボディーソープの香りがしたから。
シトラス系の爽やかな香りの他に、ほんのりとホワイトムスクのような甘い香りを感じた。
ムスクの甘ったるい香りは苦手だったけど、何だか燐の香りは心地良かった。
髪がすっかり乾くと、ちょっと出てくると言い残して燐は外出した。
当然、外出前に指示を仰いだけど
『今日は特にないからゆっくりしてれば』だって。
何だか給料泥棒みたいで嫌だな。
つくづく貧乏性なのかもしれないけど。
ここ、『RIN COPORATION』は大手建設会社の子会社。
親会社の現社長(燐の父親)が社長を兼任し、
燐がコーディネーターという肩書きで実質ここを取り仕切っている。
社長が見えることは皆無だそうで、現在その社長室は燐が占領している。
しかも彼の給料形態は歩合制だと言う。
儲かれば儲かる程、燐の懐に入る仕組みらしい。
だから役員ではなく、平社員扱いなんだ。
ちゃっかりしてるな……。
この会社に来てまず驚いたのは、一般的な事務作業が殆ど無いこと。
そうした作業は週に1度、親会社の社員が持ち帰り処理をする。
その分の人件費は支払っているらしいけど。
『RIN COPORATION』の実質の業務と言えば、
あの『方違い』みたいにちょっと普通ではお目にかからないことが殆ど。
でも、収益率がいいらしい。
資料を見せ貰っても数字の羅列で分からなかったけど、利益もかなり上がっているという。
正直、顧客リストを見てビックリした。
だって、こんな胡散臭い仕事を依頼してくるのは、親会社だけだと思っていたもの。
建設大手5社の他に錚々(そうそう)たる企業名が連なっていた。
中には顧問契約のようなものを結んでいるところもあるという。
皆口コミらしい。
取り敢えず何もしないのは嫌だったので、ファイリングされたものを見直し、
利用しやすいように整理整頓を始めた。
一時間程して燐が帰ってきた。
お帰りなさいと声をかけようとして止めた。
携帯で顧客と話しながらの帰社だったから。
「……ええ、分かります。お困りですよね」
燐が私の方を向いてニコッと笑う。
唇が『ただいま』と動く。
そんな彼の行動がちょっと嬉しい。
「その地域でしたら、こうした方面に精通した神社があります。
早急に対処してもらえるよう、こちらから連絡を入れておきますね。
……大丈夫ですよ。そんなこと普通にあることですから。ええ、ご心配なさらないで」
燐が社長室の椅子に掛けながら話し続ける。
私はすかさず作り置きした麦茶を、彼のデスクにそっと置いた。
再び燐の唇が動く。
『ありがとう。助かる』と。
暫くして会社の電話が鳴る。
滅多に鳴ることがないのでちょっと慌てた。
「はい、RIN COPORATIONです」
「あの、すみません……燐をお願いします。悠木燐にかわって下さい」
澄んだ声の持ち主が、慌てた様子でたたみかけてくる。
「……失礼ですが、お名前を頂戴できますか?」
「あ、ごめんなさい。燐の母です。いつも息子がお世話になっております」
一瞬、受話器を落としそうになった。
なぜか手に汗握り、鼓動が速くなる。
「し、失礼致しました。お母様ですか。すぐにお電話お繋ぎします」
保留にして社長室に駆け込む。
「1番にお電話が入っています。……お母様からです」
一瞬、燐の顔が曇る。
「……ありがとう」
受話器を握る燐の姿がどことなく硬い。
私はいつも開け放されている、社長室の扉を閉めて部屋を出た。
綺麗な声の女の人だった。
きっと容姿も美しい方なのだろう。
だって燐のお母さんだもの。
燐の様子が気になったけど、立ち聞きする訳にはいかず、自分のデスクに戻った。
自分の親と話すのに、あんな顔するんだ。
緊張と言う感じでは無かったけど、彼の表情は硬かった。
ここに来てから殆ど彼は笑顔だったのに、あんな表情もするんだ。
再び暇を持て余し、やることが見つからない。
じっとしていられず仕方なく、事務所内の掃除を始めた。
本棚や書類ケースの上を掃除しても、雑巾は殆ど汚れなかった。
掃除も諦めてPCの前に座り、PDFファイルに収められた、
過去の業務資料に目を通してみた。
お客様名の欄には著名な企業名がこれでもかという程並んでいて、
その他に依頼の内容、対処内容が書かれていた。
請負の金額を見て倒れそうになった。
経費込みとは言え、私の考えていた桁とは一桁違う。
……本当にこの会社に私は必要なのだろうか。
この金額を見る限り、私をおく理由に疑問を感じる。
私、何で出向になったんだろう。
初めに彼が言った言葉を思い出す。
確か、燐自身の外見の話をして、この容姿だと信用されないって言ってた。
確かに高校生をビジネスの場で信用するかと言ったら、正直難しいと思う。
でも業績も上がっているようだし、さっきの携帯でのやり取りといい、
信用を得ているように思う。
ま、ご新規さんの事を言っているのかもしれないけど、殆どが口コミだと言うし。
嘘をついているようには見えなかった。
でも、彼が私に固執する理由はないと思う。
たまたま愛想のいい私が気に入ったって。
……ホントかな?
やっぱり私が何かヘマをして飛ばされちゃったんじゃ……。
そう言えば、一度だけ思い当たる節が……。
アレかな?アレなのかな?
受付でした失態と言えばアレしか思い浮かばない。
私のいた受付は、通常お客様が見えるまでは、カウンターの椅子に座っていました。
そしてお客様が見えると椅子から立ち上がり『いらっしゃいませ』と言う言葉と同時に、
お辞儀でお客様をお迎えしました。
そして名刺を差し出されると、お客様から直接頂くのではなく、
(一般的には自らの手でお受けしますが)名刺盆(めいしぼん)と言うもので
名刺を受取りました。
何でそんなまどろっこしいことをするかは、正式なことは分かりません。
思うに大切なお名前が書かれている、謂わばその方の分身ともいえる名刺を、
大切に扱うという姿勢からかと。
私のした失敗というのは――――。
その名刺盆が勢いあまってスコーンと飛んでいき、
他のお客様へ当たってしまったことがありました。
しかも、最近。
ああ、そうだ、『アレ』しか考えられない。
間違いなく『アレ』だ。
私の手から擦り抜けた名刺盆は、他のお客様の後頭部を直撃。
「大丈夫ですよ。大したことはありません。お陰で目が覚めましたし……」
と笑って許して下さいましたが、ああ情けない。
受付人生5年の中でたった一度の失態は、本当にとんでもない大失態でした。
何で、今の今まで忘れていたんだろう。
気付いてしまった私はガクリと肩を落とした。
「あれっ、どうしたの?」
デスクに伏していると、背後から声が。
「あ、す、すみません」
いけない、今は仕事中。
ちゃんと仕事しなきゃ。
「なに?君でもそんなに落ち込むことがあるの?」
楽しそうに聞いてくる。
「私が凹まない人間とでも?」
「あれ?嫌に突っかかるね」
ますます楽しそうだ。
「お昼、ご馳走してくれたら機嫌を直します」
……京都で下着、買っちゃったからなぁ。
予定外の出費。
出してあげるよと言われたけど、上司に下着を買ってもらうなどあり得ない。
でも、ご飯なら……。
ダメかな?
「……いいよ、別に」
えっ!……今何て?
私は背後を振り返る。
「ふ……君の機嫌が直るならいいよって、そう言ったんだよ」
柔らかい微笑み。
あ……いつもそんな風に微笑めばいいと思ったけど、
彼の日頃の言動、行動を思い出すと、素直に喜んでいいものか……。
私が向けた探る様な視線に
「大丈夫。そんな事で見返りを求める程、ひっ迫していないから」
そう言って、私のおデコを小突いた。
でも、こんなやり取りが心地いい。
「ファイリング見直してくれたんだね。見易くなっていて助かった。
君は良く気が利く。お陰で色々と助かってるよ」
そんな言葉が心を軽くする。
少しは役に立ててるって気持ちになれる。
見た目は少年、でも中身はホントに大人なんだな。
やっぱり気遣いの出来る大人の男性なんだ。
タバコが嫌だと言ったら、私のいる前では吸わなくなったし、
結構大事にされてるのかな?
お昼は二人で外へ出た。
ここのところ、何だかくたびれてお弁当を作る元気が湧かない。
それは多分、慣れない環境や出来事に、精神が振り回されているから。
そんなこと言っていられる身分ではないのに。
だからお昼が一回浮くだけでも凄く助かる。
来月はしっかり出費を抑えねば。
「ご馳走さまでした〜」
正直『領収書下さい』なんて言ってたら、思いっきり引いたけど、
彼の自腹でちゃんとご馳走してくれたことが嬉しい。
いるんだよね。
女の子にいいところ見せようとして、その挙句、
おい、それは経費じゃないだろう〜
領収書もらうな〜って思うことが。
私は人に頼ることが嫌い。
だから当たり前のように驕ってもらう同性を見ると、何だか無性にイライラする。
過去に驕ってもらったことはあったけど、殆ど断るのが常だった。
それは何か見返りを求められそうで落ち着かないから。
でも燐には驕ってもらっちゃった。
嫌な気もしない。
却って嬉しい。
「機嫌直ったみたいだね」
「あ……すみませんでした。ダダこねて」
「そんなことは……。君はもっと甘え上手な子かと思ってた」
「それって受付にいたから?」
「それもあるけど……。でも安心した。意外と……いや、結構ガードが固いし」
「それは最終的に褒めて下さっていると解釈していいんですか?」
燐は答えず穏やかな微笑みで返してきた。
ドキッとする。
何だか自然に心の中に浸透してくる微笑み。
鼓動が上がった。
頬が染まりそう。
「あっ!そう言えば、お茶っ葉切れそうなんで、あそこで買っていきます。
先に事務所へ戻って下さい!」
私はそう言い残して、目の前の大手スーパーの入口へ駆け込んだ。
耳まで熱い。
彼は気付いただろうか?
まだ、鼓動が速い。
私は彼に惹かれているのかも知れない。
毎日振り回されちゃって大変だけど、私は彼に恋しちゃったのかも。
スーパーの店内は結構エアコンが利いていた。
普段弱冷房を好むけど、その時の空調は、今の私に丁度いいものだった。
手早く買い物を済ませ、私は軽い足取りで事務所へ向かった。
ちょっと前に流行った恋の歌を、何となく口ずさみながら――――。
次回、第4話「知るということ」






